Daytona2022
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巻頭特集 P.08外周550mのロードコースは自社パーツ開発とともに、JMCAによるアフターマフラーの事前認証テストにも使われている。ここからライダーの楽しみを広げる魅力的なパーツが生まれていく。日本は70年代前半、CB750FOURや750RS(Z2)といった高性能4気筒マシンに代表される第一次バイクブームを経て、80年代には第二次バイクブームを迎えた。新車のバイクが飛ぶように売れ、レーサーレプリカが登場してバイクの性能が飛躍的に進化していった。熱狂的とも言えるバイクブームの到来は、メーカーの販売競争を加熱させ、その熱はサーキットにも波及、レースは製品の優秀性をアピールするメーカー同士の真剣勝負の舞台となっていった。アメリカでレースと間近に接していた阿部も、いつかレースに参戦したいと考えていた。機が熟したのは1986年。オーストラリアからスティーブ・ワッツをライダーとして招聘。チーム・デイトナとして全日本に参戦を開始した。プライベーターとしての参戦だが、レースという同じ舞台でワークスチームには絶対に負けたくないというチャレンジ精神での挑戦であった。当時チーム・デイトナはミニバイクを底辺に国内B級、国内A級、そして国際A級(250cc)を頂点とするデイトナレーシングシステムというピラミッド型のサポート体制を確立。のちに全日本や世界で活躍する芳賀健輔・紀行兄弟や中須賀(克行)選手が若手有望株として所属し、レースの腕を磨いていった。最新鋭のマシンと整備を担当するメカニックサポートを備え、プライベーターとしては破格の規模での参戦だった。「レースは徹底的にやらなければダメ。サーキットでの競走は横一線の真剣勝負。参戦するだけでは意味がない。だからとことんやる」。レースにかける阿部の思いには鬼気迫るものがあった。だからこそチーム全員が必死になって戦った。約20年間、チーム・デイトナのエースライダーとしてレースに参戦した宮崎敦選手は当時をこう振り返る。「阿部さんの『打倒ワークス』という想いは本物だった。TZ250(ヤマハ市販レーサー)を限界までチューンしてもワークスにはあと一歩及ばない。誰もが限界と思うような状況でも、阿部さんは決して諦めなかった。『ワークスより前で走れたら、これほど楽しいことはないよね』と言って常にプラス志向で前向きだった。その後アプリリアと直接交渉してマシンを用意してくれた時、驚くと同時にその期待に応えなければと思いました」。1995年全日本ロードレース選手権、菅生大会で表彰台の頂点に立ち、その思いは結実した。プライベーターがワークスチームを抑えて勝利を手にした瞬間であった。「挑戦しない後悔よりも、挑戦をして後悔したほうがいい。結果が良くても悪くても挑戦していればきっと楽しいから。たとえ結果が良かったとしても、挑戦がなかったら本当に良いとは言えない」。創業以来、常に阿部が念頭に置いていた考えが、最高の結果として実現したのである。2002年には世界GPのシーズン初戦、鈴鹿大会・GP250にスポット参戦した宮崎選手が独走で優勝。阿部は宮崎選手とともに表彰台へ。チーム・デイトナが世界の頂点を勝ち取った瞬間だった。「レースは熱中するという熱意がなければダメ」と阿部は語る。レースにはライダー、マシン、タイヤ、メカニック、チームのすべてをベストな布陣で臨む必要がある。さらに勝利にはレースにかける熱意がチームの士気を高め、マシンをゴールへと走らせる。何かを成し遂げるためには強い信念が必要ということを改めて伝えてくれる。「バイク文化創造企業」を標榜するデイトナ。日本のバイク文化を語るとき、社会から正しく認知され市民権を得なければ文化とは言えない。1993年に国内最大規模のバイク用品店ライコランド千葉を1号店としてオープン。これは横浜にできたトイざらスを視察した阿部が、その多様な品揃えと家族が楽しんで買い物をする姿を見て「これからはバイク業界も同じようレースは真剣勝負、徹底的にとことんやる。打倒ワークス、その想いは本物であった。常に社会を見続ける、先見の明が産んだ大型用品店。1990(平成2年) 〜 2004(平成16年)「バイク創造企業」として挑戦し続

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