Daytona2022
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巻頭特集 P.07まだスポークホイールが一般的だった時代。アメリカで作られ始めたキャストホイールに目をつけ、スポークを奇数の7本とすることでバランスの良いホイールが完成。タバコの銘柄にあやかり「セブンスターホイール」と命名した。黎明期の日本のアフターマーケットに大きな影響を与え、その多くは本家アメリカにも輸出された。日本企業によるものづくりが、本場でも高い評価を得た好例である。1984年にデビューしたブレーキパッド「赤パッドR」は、現在も販売が継続するデイトナのロングセラーに。と見える赤に「交換しただけで速く走れそう」なイメージを持ち、パッドの交換がバイクカスタムになるという新たな領域を作り出した。発売から30年以上経過した今でも高い支持を受ける、超ロングセラー商品はこうして誕生した。阿部がビジネスで大切にしていたのはフェアという言葉。重要な判断を迫られたとき「フェアかフェアじゃないか」といつも考えたという。デイトナの歴史において、時には難しい立場におかれたこともあった。そんなときに「自分だけが得をするのではダメだ。商品を買ってくれるライダーやパーツの製造をしてくれる協力会社、何より社会のためになる商品を作らなければいけない」と常日頃から考えていた。会社が難し1985年、社名を「株式会社デイトナ」に変更。本社を磐田市岩井に移転。い局面に立った時も、それを実践することで、徐々に物事も前に進み始めたのである。日本で自由にバイクカスタムを楽しめるようにするには、バイクを取り巻く健全な環境づくりが必要であった。今でこそバイクのカスタムは多くの支持を集めているが、以前はバイクをカスタムする=不正改造とネガティブに捉えられた時代であった。1989年、デイトナは用品店や他のメーカーとともに、JMCA(全国二輪車用品連合会)という団体を設立。法律に適合したパーツの推奨、不良品や不正改造車の一掃など、バイクが社会に与える悪影響を排除していった。社会全体がバイクを肯定的に受け入れ、そこで正々堂々とビジネスをしたいとの思いだった。今やJMCAマークのマフラーは、法適合の証として広く認知されている。さらに現在はライダー自身の安全を守るための胸部プロテクターなどの普及に力をいれている。1972年4月、大阪市で二輪車用品の輸出入会社「阿部商事株式会社」としてスタート。ブランド名「デイトナ」の使用開始。当時のロゴはワシの翼をデザインした、アメリカを意識したものだった。日本で初めてアルミ合金製「セブンスターキャストホイール」の販売を開始。アメリカンタイプモデル用オリジナルパーツの開発、国内販売開始。日本製アフターパーツがほとんどなかった時代で、アメリカンバイクのライダーに熱い支持を受けた。アメリカンパーツの国内販売が軌道にのったため、国内マーケット向けの販売部門を創設。「デイトナカタログ」創刊。以後、とぎれることなく毎年発刊を続ける。ヨーロピアンタイプモデル用オリジナルパーツの開発、国内販売開始。スタビライザー、ステアリングダンパーを開発・販売開始。ディスクブレーキ用のブレーキパッド(通称「赤パッド」)を発売。純正パッドしか選択できなかった時代、低コスト&高制動力のパッドとして登場。社名を「株式会社デイトナ」に変更。本社を磐田市岩井に移転。ロゴもおなじみの現在のカタチに。開発用の設備も整い、ここから数多くのパーツがリリースされた。本社を静岡県磐田市に移転。写真は1984年当時のデイトナ本社。バイク好きの若者がゾクゾク入社してきた。販売店向けのデイトナ新商品ニュース「DAYTONA LOVE LETTER」を創刊。今でも毎月1回、最新の商品情報を全国の販売店に向けてリリース中。50ccスクーター用パーツブランド「デイトナミニ」を開発・販売開始。「TEAM DAYTONA」として全日本選手権に参戦開始。ライダーはオーストラリア人のスティーブ・ワッツ。二輪車の用品(アクセサリー等)として、小物・グッズ用ブランド「デイトナギヤー」を開発・販売開始。フェアな土壌で正々堂々と戦いたい。1974 (昭和49年)1975 (昭和50年)1976 (昭和51年)1979 (昭和54年)1980 (昭和55年)1981 (昭和56年)1982 (昭和57年)1983 (昭和58年)1984 (昭和59年)1985 (昭和60年)1986 (昭和61年)1987 (昭和62年)History of DAYTONA1972 (昭和47年)Archives1972〜2022 しめる環境を。

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