Daytona2022
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巻頭特集 P.061972年、大阪に「阿部商事」という小さな貿易会社が誕生した。扱うのは主にバイクパーツの輸出入事業。後の株式会社デイトナの前身である。創業者のヘンリー・アベ/阿部久夫は、幼い頃からバイクが好きで「いつかはバイクの仕事をしてみたい」と思っていた。学校を卒業後、ヤマハ(当時の日本楽器二輪事業部、現ヤマハ発動機)に入社、最初はエンジン設計を担当した。その後、若手の中から抜擢されてUSヤマハに派遣。営業兼メカニックとして全米のあちこちを周り、アメリカのバイク事情を肌で感じた。阿部がそこで見たのは、マシンを自分の手でチューンして休みにローカルレースに参加する同僚や、街中を何万台というバイクが埋め尽くすデイトナバイクウィークの熱狂など。中でもデイトナビーチで出会ったGL1000にタンデムしてやってきた老夫婦の姿に感銘を受けた。「日本は“バイクづくり”という産業は大変盛んになってきた。しかしバイクの楽しみ方はどうだろう。カスタム=改造車と白い目で見られてしまう。ここではライダーが思い思いのスタイルでバイクを自由に楽しんでいる。子どもから大人まで、バイクに乗らない人も含めて、温かな目でバイクを見守っている。なぜこんなにも違うのだろう」と大きなカルチャーショックを受けた。アメリカではバイクが社会に受け入れられ、まさに「文化」として根付いていた。アメリカから帰国後「もっと自由にバイクカスタムを楽しめる環境を日本にも作りたい」という思いを原動力に立ち上げたのが阿部商事であった。ここからデイトナの「バイク文化を創造する挑戦」がスタートした。1974年から国内向けにブランド名「デイトナ」の使用を開始。創業時に目指した自由にカスタムを楽しむ象徴を「アメリカ時代に見たデイトナの光景」と重ね、ブランドイメージもアメリカを意識したものを前面に押し出していった。1975年、日本初となるアルミ合金製「セブンスターキャストホイール」を発売。メーカー純正はスポークホイールが当たり前の時代で、海外レースで使われ始めたキャストホイールは時代の最先端。日本のライダーは羨望の眼差しで見ていた。阿部は「誰もやっていないからこそ、うちが最初に挑戦したい。どうにかして国産のアルミキャストホイールを作れないか」と製造メーカーを説得し、「カスタムパーツは見た目のデザインも大事」と7本スポークのキャストホイールを完成させて販売を開始。その多くは本家アメリカに輸出され、7本スポークのバラ1942年生まれ、福島県出身。工業高校卒業後、ヤマハ勤務を経て、(株)デイトナを創業。アメリカでの経験を糧に、日本のバイク業界に様々な変革を起こし続けてきた。現在も相談役として、バイク業界の発展に尽力する。1982年、スポーツバイク用パーツとしてスタビライザーを開発。当時の車両はフォークも細く、走行が安定するとライダーから高い評価を得る。ンスの良さとデザイン性の高さが評判を呼び、「ヘンリーアベ」の名は本場ライダーの脳裏に刻まれることとなった。1976年には本社を静岡県磐田市に移転。ホンダ・スズキ・ヤマハという国内3メーカーが発祥したバイクのふるさと・遠州地域は二輪産業の一大集積地。メーカーにパーツを出荷する多くの企業が集まっていた。この移転を契機に、これまで以上にオリジナルパーツ開発が加速していくことになる。1984年、リプレイスブレーキパッド「赤パッド」を発売開始。パッドが減ってくれば純正品と交換するのが一般的な時代に、リーズナブルで高い制動力を発揮する赤パッドの発売は画期的であった。特に赤く塗装したベースプレートが強い印象を与え、これも「カスタムパーツは見た目が大事」という阿部の信念から生み出されたものだった。ライダーたちはキャリパーの奥にチラリ本物の「バイク文化」を創造するために始まった挑戦。機能とデザインの両立が、ライダーから支持されるカスタマイズに。初代・代表取締役社長阿部久夫(現・相談役)1972(昭和47年) 〜 1989(平成元年)日本にも、もっと自由にバイクを楽  Henly Abe

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