Daytona2022
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■ライダーに夢を与える商品を産み続けてほしいデイトナには、常に新しいことにチャレンジし続けてもらいたいと思っています。昔とは違い、会社の規模も大きくなって社員数も増えたので、当然ライダーに売れる商品を作ることが大事なのはわかります。でも、チームとして一緒にレースを戦ったデイトナには、ライダーをワクワクさせたり、あっと驚かせてくれるような夢のある商品が年に一つや二つあっても良いんじゃないかと思います。僕のレーサー時代もたくさんの失敗を重ねてきました。そんな時、阿部さんから「挑戦して失敗するのは当たり前、次に絶対失敗しないように、そこから学ぶことが大事」ということを教えてもらいました。これからのデイトナにも大いに期待しています。本当は失敗することなく成功したほうが良いんですけどね(笑)。巻頭特集 P.02TEAM DAYTONA ライダー阿部さんから教えてもらったのは「決して諦めずプラス思考で挑戦する姿勢」。何度失敗しても諦めず、自分の全てをぶつけて挑み続けたことが、レースでの結果につながった。チーム・デイトナのスタッフ全員も同じ意識を共有していた。優勝するにはワークスを倒すことが目標でしたが、市販レーサーのTZ250はもう手を付けるところがないというぐらい、あらゆる部分をチューンしていました。それでも勝てない状況だったとき、阿部さんがイタリアのアプリリアと直接交渉して、マシンを購入して用意してくれました。翌シーズンに向けての鈴鹿テストで、TZとアプリリアRSV250の両方を乗ってみて、アプリリアの可能性に賭けました。そこまでやってもらい乗るしか選択肢はなかったですね。最初の年から速さはあったけど、安定性に欠けたところもあって、メカニックと二人三脚でセッティング作業を繰り返してマシンを作りました。レーサーバイクは毎年進化して仕様が変わりますが、1年間セッティングを詰めたマシンなら勝てると思い、翌年は敢えて旧型のマシンで参戦しました。こうしてワークスを倒して勝ち取った全日本での優勝。これはレースを走った僕一人の力ではなく、阿部さんの執念と文字通りチーム一丸となって掴んだ勝利で、僕のレース人生でも一番の思い出です。表彰台の頂点に立ち、会場にいた阿部さんが泣いて喜んでくれたとき、ようやく一つ恩返しができたとホッとしたことを憶えています。山口県下関市出身。モーターサイクル・ロードレーサー。1988年よりTEAM DAYTONAに所属。以降20年に亘り、デイトナと全日本GP250・ST600を主戦場に戦う。2002年世界選手権・日本GP (鈴鹿)GP250クラスでTEAM MOTOREX DAYTONAとして優勝を飾る。最近新調したレーシングスーツの袖にもデイトナロゴが。宮崎さんとデイトナの繋がりは今も変わらない。72番は初めて出場したレースでつけたナンバー。■一度は諦めかけた道を、再び繋げてくれた存在デイトナ創立50周年、おめでとうございます。僕が17歳でレースを始めたジュニア時代、所属したチームはバイクのメンテナンス作業に追われる日々で、理想とするレース活動ができませんでした。このままではダメだと思い、先のアテもなくチームを飛び出しました。「来年走れなければ、レースをやめて地元に戻るしかないな」と思っていた時、ブリヂストンの金井さんが声をかけてくれ「デイトナに手紙を書きなさい」と言われました。その言葉を信じて自分の思いの丈を文章にして手紙を書きました。それで阿部(当時、社長)さんに思いが通じ、TEAM DAYTONAに所属することができました。それまでレース参戦は全て自己資金でしたが、デイトナでは給料とメカニックまでつけていただき、走ることに専念できました。最初の年はデイトナ社員として雇ってもらい、給料をいただいても余ってしまって。どう使ったらいいかわからなかったぐらい(笑)。僕のレーサー人生、29年のうち20年をデイトナとともに走ってきました。初めてプロレーサーとして扱ってくれたデイトナには感謝の言葉しかありません。■打倒ワークス、チーム一丸となって掴んだ勝利レーサーとしては、やはり02年の世界GP鈴鹿での優勝がハイライトですが、一番印象に残っているのは95年の全日本ロードレース第5戦SUGO。TEAM DAYTONAとしてみんなで勝ち取った勝利が一番の記憶ですね。当時チームデイトナはプライベーターとしてはトップチームでしたが、ワークスチームは全ての面で次元が違っていました。レースをしている以上、50th Message From Daytona People.#01OsamuMiyazaki宮崎 敦

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